誰しも誰かを傷つけてしまうのだろうということ

今日は、ふと思ったことを綴ります。結論はないただのつぶやきです。

妊娠・出産に関連して、「誰しも、知らずに誰かを傷つけてしまう」と思った話。

芸能人の方が死産を発表されました。SNSや関連のコメント欄をみると、「赤ちゃんは忘れものを取りに天に帰っただけなので必ずまた来てくれますよ」とか「私も死産しましたが、今は2児の母です」とか、そういうコメントが目につきました。

私としては、「それって励ましなの?」と思いました。今 赤ちゃんを亡くして死産という経験をした人にかける言葉なのだろうか、と。

「今後 赤ちゃんがまた生まれますよ」、私はそんな無責任なことは言えない。妊娠・出産について私は「必ずまた次もありますよ」なんて根拠のないことはとても言う気にならない。そもそも「今」とてつもない悲しみを抱えているであろう人に、なんで「先」の話をするんだろう。未来にもう一人赤ちゃんがいるとして、今「だからいいや」と思えるの?私はとても疑問でした。

ただ、SNSやコメント欄に書き込んでいる人たちに悪意はない。皆、自分なりに相手を思いやり、どうか元気になってもらいたいと願って、書き込みをしているのだろう。それは間違いない。だから、自分が違和感を覚えるからと言って、書き込みをしている人たちを「悪」とか「気遣いがない」とかそういう風に思うのはやめよう。と、自分を戒めた。

そんなある日、私が感じた違和感と同じような論点のコラムをみかけた。「「また赤ちゃんがきてくれますよ」というような言葉は、より傷つけてしまうこともあるのではないだろうか」という内容だった。

そのコラムの読者コメント欄に、こんな言葉を見かけた。「この芸能人が妊娠を発表したことで悲しい気持ちになった人も世の中にはいただろう。こういう問題はとても難しい。」。

ハッとした。確かにそうだ。

私はずっと不妊治療をしていた。なんの成果もないままでも年月は平等に過ぎ去り、いつしか妊娠・出産においては「高齢」と言われるアラフォー世代になった。そんな日々の中には、何人もの芸能人の妊娠・出産のニュースがあった。自分の心が穏やかでない時は、ニュースを目に入れないようにしたこともあった。自分の心がまだ穏やかな時期でも、心に小さくチクっとくる感覚はあった。誰かにとってのおめでたいニュースに対して、人知れず孤独に悲しみを覚えてる人がいることを、私も十分知っている。

人を気遣って発した言葉も、誰かの何気ない近況報告の言葉も、発した本人が知らないところで傷つく誰かがいるかもしれない。誰かを傷つけたくなんてないのに。できれば誰も傷つけず、優しく生きていたいのに。つくづく、人と付き合うというのは、なんて難しいことなんだろうと思った。

「私は今 あなたの発言で傷つきましたよ!」と怒ってもらえた方がまだわかりやすいが、往々にして傷の深い人ほど人知れず孤独に悲しみを堪える印象がある。なので、なかなか「気遣いのない発言をしてごめんなさい」と謝る機会は無いし、謝ることが正解でもないだろう。

自分から嫌味を言っているわけではないので、本当に難しい問題だと思う。妊娠・出産に限らず「人は誰しもいろんな苦しみを抱えている」ということは念頭に置いて生きたいし、傷つける側・傷つけられた側のどちらにしても「誰しも、知らずに誰かを傷つけてしまう」ということも、ちゃんと知っておきたいと思った。

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